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料理旅館白梅 女将の祇園つれづれ日記【きょうとくらすコラム】

祇園白川沿いの風情ある場所にたたずむ料理旅館白梅。老舗の格式、きめ細やかなおもてなしで、国内外から高い評価を得ています。その人気旅館の女将から見る祇園の景色を『きょうとくらす』で毎月1回、コラムでお届けします。

京都と言えば祇園を思い浮かべる人も多いけれど、実際はどんな場所で、どんな人が集まり、どんな人が暮らしているの……?と知らないことも多く、京都人も憧れの町ですよね。

ベールに包まれた世界を、祇園生まれ祇園育ちの女将が教えます。京都の奥深さ、昔から今も大切にされている京都の流儀、老舗のしきたり……世界中が憧れる魅力の裏側をのぞいてみませんか?

画像:料理旅館白梅

私が祇園の女将になるまで

「どうしたら祇園から逃げ出せる?」私が中学時代から考えていたこと。

皆さんの祇園のイメージはどういったものですか? 芸舞妓のそぞろ歩く古いお茶屋の街並み、伝統と文化の色濃く残る暮し……でしょうか。

初回の今回は私が祇園の女将になるまで、を書いてみたいと思います。

画像:料理旅館白梅

生まれ育ちも祇園なのに、古臭くて年寄りが多くて、見えないルールが多いこの街が実は大嫌いでした。おまけに実家は料理旅館で代々、女子が後継ぎという宿命。

それでもレジスタンス第一弾、大学は京都以外と幸い西宮の関西学院大学に合格し、意気揚々と合格報告と1人暮らし宣言をする私に「何言うてんのん、阪急電車そこやさかい、通えるで。」の母の一言で私の脱出計画はあえなくとん挫。

次のチャンスは就職時、しかしすぐ手伝ってほしい、という母を説き伏せてくれたのは父でした。

「他所で仕事をした経験は必ず後々為になるから」という父の言葉に今も感謝しています。この経験がなければ私は京都には今いなかったと思うからです。

祇園パワー炸裂

しかし皮肉にも祇園のパワーを知ったのも就職活動中でした。全日空の成田空港配属のCA(キャビンアテンダント)なら京都から通えないので「京都から出られる」と思い就職先に選びました。

面接試験に備えて日経新聞を読み込んでいった私に面接官が聞いたことは「君の住所、どこ?祇園?へえー。」、二次面接では「舞妓さんってどうやって呼べるの?」、三次面接では「〇〇お茶屋のおかみさんに宜しく伝えてくれ。」と伝言まで預かる始末。

訓練所の教官にも「貴女ね、祇園採用の子は」と言われ、またびっくり。どうも祇園はサービスのプロ集団の街だからこのコにも才能があるはず、と思われたよう。

実際は教官に毎日、丁寧な……でも私にとっては少々辛口のコメントをもらい続け、京都弁で機内アナウンスはなかなかOKがでず、軽い気持ちの女子大生気質は粉々に……。実際の乗務はとても楽しかったですが「もう一度訓練所に通え」と言われたらちょっと考えてしまいますね。

画像:料理旅館白梅

CAと旅館業の共通点

CAと旅館の仕事、全く違うようで実は似ているんです。特にニューヨーク、パリ、ロンドンなどの長距離路線はお客様の搭乗、1食目のサービス、機内消灯休憩、2食目のサービス、降機が一連の流れですが、旅館でいうと チェックイン、ご夕食、就寝、ご朝食、チェックアウト、とほぼ一緒なのです。

また機内サービスとして、一流の講師陣から食材やワイン、日本酒の講義を受け、立ち方、身だしなみ、プロとしての心構え、サービスメソッドを学べたのは一生の財産となりました。

何より、世界にはこんなに多くの国と人、そして考え方があるという事、そして違っていてよいのだ、と知り故郷京都への見方も変わってきたのです。

また海外のステイ先で京都のことを聞かれるたびに、自分が生まれ育った京都、祇園の事を何も知らないという事実に気が付きました。大切なものは距離を置かないと気が付かなかったり当たり前のものがどんなに大切なのか、なくならないとわからなかったり本当に人間は不器用ですね。

画像:料理旅館白梅

私を祇園へ連れて帰ってくれた

6年間のCA時代が私を祇園へ連れて帰ってくれました。そしてそれは本当に幸せでラッキーなことだと思うのです。

次回は女将の1日をご紹介したいと思います。どこかでCA時代の(内緒の)面白エピソードもお話させて頂きますね。

ではまた次回お目にかかれますように。

画像:料理旅館白梅

奥田朋子(おくだ ともこ)/料理旅館白梅 女将

1965年京都生まれ。1989年全日本空輸株式会社にCAとして入社。
1997年より若女将として、2017年より女将として料理旅館白梅を経営し、2017年より祇園新橋景観づくり協議会会長として京都、祇園の街づくり活動にも積極的に参加している。

文/奥田朋子

【画像】料理旅館白梅