祇園白川沿いの風情ある場所にたたずむ料理旅館白梅。老舗の格式、きめ細やかなおもてなしで、国内外から高い評価を得ています。
その人気旅館の女将から見る祇園の景色を『きょうとくらす』で毎月1回、コラムでお届けします。
第12回の今回は、京都ならではの風情ある宿についてお話しします。
祇園茶屋街の始まり
猛暑が続き台風など何かと気忙しい秋の始まりとなりました。
台風10号は随分驚かさせたものの、有難いことに京都はアレっと思うくらい肩すかしで…千年都が続いたのも地震、台風などの天災が少ないからという先人の言葉を思い出してしまいます。
このあたりがお茶屋街として栄え始めたのが江戸初期、南座をはじめ7軒の芝居小屋がたち多くの見物客が訪れたことに始まります。はじめは湯茶を提供していたので、喫茶店のようなものだったと思います。芸舞妓の家がお茶屋と呼ばれるのはその由来だそうです。そのうち酒食や舞、三味線などの余興が加わっていき、今の花街へと変化していきました。
江戸末期1864年の蛤御門の変で鴨川から西は火災に遭いましたが、火は鴨川を越えませんでした。
しかし、その翌年祇園新地大火と言われる大火事でこのあたり1帯が丸焼けになりました。
守り続ける宿
そのあと徐々にお茶屋の再建築が始まりました。この建物は、私が幼い頃は屋根も2階も少し傾いてふすま障子も動かない箇所もあり、重い瓦屋根に押されて建物の構造が歪んでしまっていたようです。
私が旅館を継いで26年間の間5回の大きな工事をして今に至っていますが、何より幸運だったのは素晴らしい建設会社とご縁がいただけたことです。
今では、週に1回は保守でお越しいただくホームドクターでもあり、古い旅館の維持管理は伝統を守る職人さんが欠かせません。
ただ、もちろん予算もかかります。
祖母は肝っ玉の太い人でしたから、「やるときはやったらええ、と言ってくれましたが、けちんぼ魂のある母と、私はえ~この土壁まだきれいやし、このままでもええんと違いますか?」と棟梁に相談してみたところ、反対に「お二方はどうやってお化粧されますか?」と尋ねられました。
唐突な質問に驚きましたが、「洗顔して、化粧水乳液をつけて、下地ファンデーションであとはアイシャドウで…」と答えると、「そうでしょう、なんでも土台が大切です。古いお化粧の上にファンデーションを塗り重ねても綺麗になりますか」と言われ大いに納得したものです。
棟梁曰く古い家は女性と一緒、日々のお手入れで水分、油分、そして時々美容整形だそうです。
目指しているのはそれぞれのお部屋の特徴を活かしながらお客様にどう快適にお過ごしいただくか。
古いものを楽しむのと、不便は違いますし旅館と存在の意味は伝統とより良い解釈、又それをお客様に体験していただくことにあると考えています。
奥田朋子(おくだ ともこ)/料理旅館白梅 女将
1965年京都生まれ。1989年全日本空輸株式会社にCAとして入社。
1997年より若女将として、2017年より女将として料理旅館白梅を経営し、2017年より祇園新橋景観づくり協議会会長として京都、祇園の街づくり活動にも積極的に参加している。
文/奥田朋子
【画像】料理旅館白梅
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