祇園白川沿いの風情ある場所にたたずむ料理旅館白梅。老舗の格式、きめ細やかなおもてなしで、国内外から高い評価を得ています。
その人気旅館の女将から見る祇園の景色を『きょうとくらす』で毎月1回、コラムでお届けします。

第12回目の前回は、「修学旅行のいまむかし」ついてお話させていただきました。
立春となり暦の上では春ですが、今年は久しぶりに京の底冷え、骨にしみるような寒い日が多いですね。第13回の今回は、「祇園での冬の過ごし方」について少しお話させていただきたいと思います。
祖母のぬくもりを継ぎ、町家の底冷えを変えるまで
昨今の冷気でよく思い出すのが子ども時代の冬。
白川沿いの宿なので川の冷たい風が床下へ入り込み、昔の館内は特に1階の客室では朝になると外気温とあまり変わらないほどの寒さでした。
エアコンもありましたが、京都の町家は夏の旨に作られており、風が家の中を通るようにできているので部屋の暖気も抜けてしまいます。
また、暖まった空気は軽く上にあがるので、座卓や座布団の生活位置が低い和の暮らしは寒く、火鉢や石油ストーブの直火の暖かさが不可欠でした。
寝る際には、祖母が豆炭を入れた一人用の行火(あんか)を布団へ先に入れて温めてくれていました。
実際に寝るときに使う湯たんぽは朝になるとお湯の温度は冷めているのですが、中に入っている水はまだ温かみがあり、朝に顔を洗うのに嬉しかったものです。
雪の朝には、雪ウサギを作り雪投げをしながら小学校へ。
私が通っていた学校では、真冬でも体操服に半袖、半ズボンで過ごせるのがカッコいいという風潮があり、その格好で真冬のグラウンドで走り回る強者揃いの学校でしたね。また、夏には皆スクール水着をTシャツの下に着て、いつでも川に入れるようにしていたので、祇園の子どもたちはかなりワイルドだったようです。

家では祖母が「女の子は身体を冷やしたらあかん」と粕汁や生姜湯、葛湯などもよく作ってくれました。ですが、本葛は高価なので子どもには片栗粉を練ってお湯で溶かした葛湯もどきでした。
これはこれで美味しくて、とろっとしていてほの甘い冬の記憶です。
そんな風情ある、少し寒さを感じるような暮らしが大きく動いたのは、
私が全日空を退職し、京都へ戻ってきた翌年のことでした。京都の跡継ぎが一度は通る道とも言われる、いわゆる「京都いやや病」。私自身も、そんな思いを抱えていた時期があったのですが…。その頃、宿の建物をおよそ1年にわたって改修する決断をします。
女将である母も、大女将の祖母も、跡継ぎが定まらないまま大きな改修に踏み切ることには、正直なところ迷いがありました。けれど、私が京都へ戻ったことをきっかけに、家族としての覚悟が固まり、
結果的に10か月に及ぶ改修工事を行うことになったのです。
現在もお世話になっている建築会社の社長に、「床暖房にするのはどうですか?」と勧められましたが、畳の部屋を床暖房にするイメージが湧かなかったため初めは半信半疑でした。
しかし、導入してみると…。足元から暖かくて、空気は乾燥せずお肌にも髪にも良く初めは「暖気代がえらいことになる。」と心配していた母ですが、結果的にエアコンをほとんど使わなくなったので電気代も下がり良いことずくめ。今は、ロビーや談話室に浴室、洗面所にも床暖房をしていますので、この冬でも館内は暖かく海外のお客様は半袖で過ごされる方もおられます。
冬の客室でお客様に喜ばれるのが雪見障子です。
「寒いけど雪景色は見たい」そんな思いから生まれた障子です。ガラスが国産化された明治40年ごろから作られ、下部分にガラスをはめ込んだ建具で上げ下げできる2重構造の障子道具で職人の緻密な技があってできるもので、京都の美は多くの職人集団によって支えられています。
今、その雪見障子から見えるのは、ちらほら咲き始めた白梅の花。
春遠からじ、どうぞ暖かくお過ごしください。
奥田朋子(おくだ ともこ)/料理旅館白梅 女将
1965年京都生まれ。1989年全日本空輸株式会社にCAとして入社。
1997年より若女将として、2017年より女将として料理旅館白梅を経営し、2017年より祇園新橋景観づくり協議会会長として京都、祇園の街づくり活動にも積極的に参加している。
文/奥田朋子
【画像】料理旅館白梅
