田辺城外観
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「田辺城」の強化と舞鶴の城下町づくりに尽力した細川幽斎【舞鶴市】

KBS京都で放送中の『京都浪漫~悠久の物語~』。
今回は、2023年12月3日(日)に放送された『天才武将に思いを馳せる旅~長岡天満宮・桂林寺・天授庵・舞鶴公園~』から、舞鶴公園・田辺城をご紹介します。

細川幽斎を誇りとする街「舞鶴」

ゆうさいくん
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

京都府北部の港湾都市・舞鶴市。舞鶴市のゆるキャラとして活躍する『ゆうさいくん』は、舞鶴田辺城の城主・細川幽斎のイメージキャラクターです。毎年5月の最終日曜日には『まいづる細川幽斎田辺城まつり』が盛大に催されるなど、舞鶴は今も幽斎を誇りとする街です。

京都府宮津市の風景
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

天正8年(1580年)、幽斎がまだ藤孝と名乗っていた頃、盟友・明智光秀の協力を得て丹後南部を平定。翌年、長岡京市の勝龍寺城から現在の京都府宮津市へと居城を移しました。

本能寺の変の説明
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

宮津から舞鶴に移ったのはその1年後の大事件『本能寺の変』がきっかけでした。

天正10年(1582年)、明智光秀の軍勢が突如として京都・本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃。信長は寺に火を放ち自害します。

明智光秀の肖像画
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

光秀は長年の盟友・細川藤孝に援軍を要請しますが、藤孝はこれに応えませんでした。出家して幽斎玄旨と名を改め、家督を息子・忠興に譲って隠居し、宮津城からおよそ16km南東の舞鶴の田辺城に移りました。

高い防衛能力を誇った「田辺城」

舞鶴公園
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

現在の田辺城址は本丸周辺が舞鶴公園として生まれ変わり、市民の憩いの場となっています。

舞鶴公園アクセス
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

舞鶴公園までは、JR舞鶴線・京丹後鉄道宮舞線の『西舞鶴』駅から徒歩およそ5分です。

瀬替えの解説図
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

田辺城の周辺はかつて、水害が多く発生しました。そこで、幽斎は真倉川と池内川を高野川に流れないよう瀬替えし伊佐津川へ川を繋ぎました。

何重もの堀で護られた鉄壁の田辺城
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

幽斎は、川の流れを変える瀬替えを行うとともに、湧水を利用した御水道という上水道を整備。こうした大規模な治水工事を行うことで、何重もの堀で護られた鉄壁の田辺城を築くとともに、新たな城下町を形成しました。

舞鶴城
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

『舞鶴』という町の名は、田辺城の姿が舞い降りた鶴のように美しく『舞鶴城(ぶかくじょう)』と呼ばれたことに由来しています。
※現在の城門や隅櫓(すみやぐら)は復元

穴太積み
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

田辺城は、明治時代に廃城となりましたが、本丸跡に造られた舞鶴公園には、今も当時の石垣が残っています。本丸を囲む石垣跡では、安土桃山時代の築城技術の高さを目の当たりにすることができます。

江戸時代の城下町の様子
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

城は三重の堀で囲まれ、さらに外堀として川の橋の数は制限されていたそうです。田辺城ガイドの会会長・武田さんは、「橋がないため生活は不便だが、橋の袂には人が集まるので街が賑わっていた。2階建ての瓦葺、白壁の漆喰の蔵が立ち並び、当時としては近代的な街並みが出来上がった。」と語ります。

幽斎が城の強化と舞鶴の城下町づくりに尽力したことが伺えますね。

田辺城外観
画像:KBS京都『京都浪漫 悠久の物語』

その後、複数の堀を築いたこの城で『田辺城の戦い』が行われます。

田辺城は石田三成勢およそ15,000人によって取り囲まれました。城に籠るのは幽斎をはじめとする細川家家臣や城下の町衆など、総勢はおよそ500人。西軍・石田勢は30倍の勢力で攻めますが、田辺城を陥落させることはできませんでした。

2か月にわたる籠城戦は、石田方の優勢で終わったもののその軍勢は、3日後に起こった『関ヶ原の戦い』に間に合いませんでした。ガラシャを失った細川忠興の奮戦とともに、徳川方勝利の一因と考えられています。

舞鶴には様々な歴史秘話が伝わっているのですね。

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文/西門

【画像・参考】京都浪漫~悠久の物語~(第1・2週 日曜日 21:00~21:55/再放送 第3・4週 日曜日 21:00~21:55) – KBS京都
※この記事は、2023年12月3日(日)放送時点の情報です。