祇園白川沿いの風情ある場所にたたずむ料理旅館白梅。老舗の格式、きめ細やかなおもてなしで、国内外から高い評価を得ています。
その人気旅館の女将から見る祇園の景色を『きょうとくらす』で毎月1回、コラムでお届けします。
今回は祇園で育った私の成長物語についてをお話しします。
祇園育ち
今年の春はいつもに比べてのんびりやってきたおかげで、しばらく卒業式の花だった桜が、今年は昔のように入学式の花となりました。新しい生活に期待ふくらむ4月ですね。
でもいま祇園には入学式を行う学校はありません。厳密にいうと芸舞妓の学校の女紅場学園以外は小中学校は生徒数の減少で統合廃校になってしまったのです。
祇園町のある東山区は合計特殊出生率は、2022年の統計では0.74と全国的にみてもとても低い水準。要因は寺社仏閣と花街が多く、芸舞妓や祇園で生きる女性は未婚女性が多い、おまけに未婚男性はお坊様という特殊な環境にあるようです。
それでも私の幼かった頃はまだ周りに子供がたくさんいました。祇園の北側の小学校は三条京阪南にあった明治2年開校の有済小学校でクラス名もい組、ろ組、は組と火消し組のようなクラッシックな名前。歴史のある小学校で、地下には第2次大戦中の防空壕もありました。
1学年57人、全校生徒300人ほどでしたが放課後は毎日校庭で下校時間まで遊ぶか、自宅にランドセルを放り込んだら白川か円山公園、たまに鴨川へ遠征とほぼ外で過ごしました。ついでに友達のところで夕食までいただいて、時々そのまま銭湯も一緒に行くというように、地域が子供を“まち全体の子供”ととらえていたおおらかな時代でした。
子どもの夏の楽しみ
白川もその頃はまだ友禅流しをしていたので、水深も深く、夏は絶好のプール代わりでした。子供はだいたいTシャツの下に水着を着て過ごしていました。お盆だけは祖母に「河童に肝を抜かれるから川に入ったらあかん」と言われていたのが、今は懐かしい思い出です。
晩夏の楽しみは町内の地蔵盆。子供を守る地蔵菩薩の縁日の日に行われる子供が主役の行事で食べ放題、飲み放題、ゲームにくじ引きにとそれは楽しい一大イベントでした。今は年齢が上がり、元子供の行事となっていますがやはり町内の皆さんと会えるのは嬉しいものです。
幼稚園の頃、私はかなりやんちゃだったので、「鴨川で蛇を拾ってうちのお茶屋に持ってきて、舞妓を泣かせた」などと今でも言われます。もう忘れてください……でもこれからもきっと言われるのでしょうね。
見えない境界
私的な感覚なのですが、鴨川から東はわが街でどこでもつっかけ、サンダルで大丈夫ですが、四条大橋を渡って西側へ行くのはちょっと遠くへ行く感覚。着替えて靴に履き替えて……と今でもなんとなく見えない境目があります。
小学校1年生の頃は、母と祖母に鴨川を渡るのは禁止、「先斗町は大人のまちやさかい、絶対に子供だけで行ったらあかんえ」と言われていました。
約束を破り、小学2年の夏の大冒険で友達と2人で四条大橋を決死の覚悟で渡り、先斗町の交番の角から通りを覗いたある昼下がり。銭湯帰りの芸妓さんの洗い髪に浴衣姿が子供心にもとても色っぽくドキドキしたのを今でも覚えています。
あの頃は…
中学校は八坂神社前にあった弥栄中学。今は廃校になり、漢字ミュージアムになっていますね。
ちょうど全国的に中高が荒れた時で、教室の窓のガラスはほとんど破られて、入れてもまた壊されるから、とビニールが貼ってありました。
授業の途中でどこかの教室でケンカが起こって、教科書も1年通して最後までなかなか終わることがなく、男子の制服は、Tシャツに新京極で裏に龍や虎の刺繍をした学ラン、リーゼントに剃り込み、女子は長いスカートにつぶしたカバン、細く剃った眉。そんな中学生の相手をするためなのかに、先生方もみな20代~30代がほとんどだったように思います。
私は真面目な部類でしたが、振り返るとちょっと恥ずかしい中学生の自分です。
この時期の京都市は、「15の春は泣かせない」というスローガンで教育機会の均等化を目指し、高校入学試験は緩やかなものでした。弥栄中学は堀川高校エリアでしたが、そんな時代で10代が勉強するはずがなく、わたしたちはお気楽な高校生でした。
制服がなかったものですから授業を抜け出していた強者たちもいました。ただ、そんな状態で大学受験の競争ではしんどい思いをする人も多く、15の春は泣かないけど18の春で泣くと現実の厳しさを思い知ったのでした…。
いまでこそ堀川高校は超の付く進学校で、ここまで変われるのかと驚いています。お客さまに時々、「女将さんどこの高校?」と聞かれ「堀川高校です」と答えると必ず「えーものすごい優秀だったんですねえ」と言っていただくので、ちょっと気まずいですが後輩に感謝いたしております。
今は祇園町で子供を見かけるのは稀になりましたが、その分元気な大人がいっぱい。この年になっても私の子どもの頃を知っている人たちがいて、まだ叱ってもらえるのはありがたいことだなあと思えるようになった今日この頃です。
温故知新、宝ものの思い出を新しい力に変えて、始まりの季節を楽しんでいきたいですね。
奥田朋子(おくだ ともこ)/料理旅館白梅 女将
1965年京都生まれ。1989年全日本空輸株式会社にCAとして入社。
1997年より若女将として、2017年より女将として料理旅館白梅を経営し、2017年より祇園新橋景観づくり協議会会長として京都、祇園の街づくり活動にも積極的に参加している。
文/奥田朋子
【画像】料理旅館白梅
PIXTA(ピクスタ):オリバー/active-u/Anesthesia
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