KBS京都で放送中の『京都浪漫~悠久の物語~』。
2023年7月9日(日)に放送された『狂言師と巡る能楽ゆかりの地~御香宮神社・因幡堂・豊国神社〜』をご紹介します。
「豊国神社」の歴史と見どころ
京都市東山区にある豊国神社。
豊国神社までは、京阪電車 『七条駅』から徒歩およそ10分、バス停『博物館三十三間堂前』からは徒歩およそ5分です。
慶長4年(1599年)に、豊臣秀吉の遺体が埋葬された阿弥陀ヶ峰の中腹に創建されたのが豊国神社の始まり。
徳川の時代になると秀吉に対する祭祀が禁止され荒れ果てましたが、明治になって現在の地に再建されました。
神社の顔とも言えるのが国宝の唐門です。明治13年(1880年)に再建されたときに南禅寺の塔頭・金地院から移築されたもので、秀吉の居城である伏見城の遺構とも伝わります。
豊臣家の家紋である 『五七桐(ごしちのきり)』や、
出世を象徴する 『鯉の滝登り』など、随所に施されている彫刻が見事です。
これらは桃山時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した彫刻家・左甚五郎(ひだりじんごろう)の手によるものとされています。
豊国神社と茂山家の関わり
この豊国神社は、茂山家とゆかりのある神社でもあります。きっかけとなった人物が七五三さんのひいおじいさんにあたる二世・茂山千作さん。明治時代を生きた狂言師です。
千作さんは明治維新により衰えた能楽の復興に尽力。明治31年(1898年)には、豊国神社で秀吉の能楽への功績を讃えた『豊太閤(ほうたいこう)三百年祭奉納能』を開催。全国からおよそ280人の名だたる能楽師が参加し、4日間にわたって盛大に催されたといいます。
後年、奉納された石碑にもその名が刻まれ、当時の功績を今に伝えています。
能楽に熱中した秀吉による「禁中能」
晩年、能楽に熱中した豊臣秀吉。妻への手紙に「能の稽古で忙しい」と書くほどでした。
文禄2年(1593年)には天皇の住まいで能や狂言を演じる前代未聞の『禁中能』を3日間にわたって開いています。
豊臣秀吉のほか、徳川家康など多くの武将が天皇の前で能楽を演じたというので驚きです。
「宝物館」に並ぶ秀吉ゆかりの品
続いては、豊国神社の宝物館へ。こちらには秀吉にまつわる数多くの品が展示されています。
例えばこちらは、秀吉が戦場で実際に用いた馬印『豊公馬表之瓢(ほうこううまじるしのひさご)。
変わったところでは、秀吉の歯である『豊太閤御歯(ほうたいこうおんは)』など、ほかでは見ることができないものばかりが展示されています。
秀吉を弔う祭りの様子を描いた「豊国祭礼図屏風」
展示品の中でも見応え十分なのが、桃山絵画の傑作として知られる『豊国祭礼図屏風』。こちらは六曲一双の右隻、つまり右側です。
この屏風は秀吉の7回忌にあたる慶長9年8月に行われた豊国大明神臨時祭礼の様子を描いたものです。
豊臣家は1度限りであるこのお祭りを記録に残さなければと考え、この屏風を制作させたのだと伝わります。
こちらは、大和の猿楽四座合同による翁舞が能舞台で行われている様子。秀吉が能楽好きだったことが分かる絵です。
続いては屏風の左隻(左側)の部分を見ていきましょう。こちらにもたくさんの人物が描かれているのがわかります。
中央右寄りに大きく描かれてる建物は、現在の豊国神社の場所にあった方広寺の大仏殿。このような大仏殿がかつて豊国神社の場所に建っていたことがわかります。
屏風の下の方に描かれているのは、幾重にも輪になって踊る人々の姿。『風流踊り』という踊りが奉納されている様子です。
中には、“たけのこの仮装”というユニークなものも! 中国に伝わる24の親孝行の話『雪中のたけのこ』を題材にしたものです。
『豊国祭礼図屏風』では、お祭りで秀吉を弔うという賑やかな雰囲気がとてもよく表現されています。賑やかなことが好きだったという秀吉もきっと喜んだことでしょうね。
豊国神社参拝の際には、唐門や宝物館を細部まで是非じっくりと鑑賞してみてください!
文/中村ゆか
【画像・参考】京都浪漫~悠久の物語~(第1・2週 日曜日 21:00~21:55/再放送 第3・4週 日曜日 21:00~21:55) – KBS京都
※この記事は、2023年7月9日(日)放送時点の情報です。