KBS京都で放送中の『京都浪漫~悠久の物語~』。
今回は、2023年6月4日(日)に放送された『禅寺に伝わる女性と仏教の物語』から『相国寺とその山外塔頭寺院』を4回に分けてご紹介。
今回は、臨済宗相国寺派の大本山・相国寺とその山外塔頭寺院である眞如寺、金閣寺、銀閣寺の歴史と魅力をご紹介します。
相国寺とその山外塔頭寺院~相国寺・眞如寺・金閣寺・銀閣寺~
「相国寺」の歴史
京都市上京区京都御苑の北にある門『今出川御門』の向かいに伽藍が広がる相国寺。室町幕府3代将軍・足利義満が自らの修行のため、『花の御所』と呼ばれた邸宅の東側に建てた禅寺です。
相国寺までは、地下鉄烏丸線今出川駅から徒歩およそ8分。市バス同志社前または烏丸今出川のバス停からは徒歩およそ5分です。
境内で最も大切な場所とされる開山堂には、足利義満や歴代住職の像を安置しています。
政治・文芸のほか、禅の修行にも熱心に励んでいた足利義満。
さらに禅の修行に励むべく新しい寺を建立することを、禅の師匠である春屋妙葩禅師(しゅんおくみょうはぜんじ)に相談し、相国寺建立を発願しました。
義満は当時左大臣の位であったことから、中国での左大臣の呼び名“相国”から相国寺と名付けられたと言われています。
建立にあたり義満は春屋妙葩禅師を開山(その寺を開いた僧侶)として切望しましたが、春屋妙葩禅師はこれを辞退。自身の師であり天龍寺の開山でもある夢窓国師(むそうこくし)を、既に亡くなっていましたが勧請(かんじょう)開山とし、春屋妙葩禅師は二世として相国寺の住持つまり住職になりました。
相国寺の落慶供養が行われたのは明徳3年(1392年)。今でも境内地は4万坪、東京ドームおよそ3個分という広さですが、創建当初はその36倍もの寺域を誇り、50余りの塔頭寺院が建てられていたと伝わります。
京都五山の第二位に列せられ、塔頭の金閣寺や銀閣寺を含め室町文化の中心を担う大寺院となりました。
波乱万丈!戦火に飲まれた相国寺の歴史
そんな大伽藍が戦場になったのは応仁元年(1467年)10月のこと。応仁の乱で最も激しかった戦闘『相国寺の戦い』が起こりました。
この戦いで相国寺は全焼。足利将軍家は急速に力を失い、伽藍の復興も思うようには進みませんでした。本尊を安置していた仏殿もその後に焼失した三門もついに復興されることはなく今に至ります。
現存する最古の法堂
法堂(本堂)もまた相国寺の苦難の歴史を物語る建物です。火災や戦乱などでこれまで4度にわたって焼失しています。
法堂とは住職が説法や禅問答を行う場所。本来、畏れることなく法を説くためのお堂であることから、相国寺では『無畏堂(むいどう)』と言われています。
この法堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の寄進によって5回目の再建が行われ、日本で現存する法堂建築の中で最古のものです。
天井には描かれているのは、狩野派の狩野光信による『蟠龍図』。龍は仏法を守護する空想上の生き物で、水を司ることから火災からお堂を護るという願いも込められています。
表と裏で表情が異なる方丈の庭園
方丈は相国寺のかつての栄華を偲ばせる建物。江戸時代の 『天明の大火』を経て文化4年(1807年)に再建されたもので、方丈としては大規模な建築になっています。
方丈の大きな見どころは、表と裏で表情が異なる庭園。南側の前庭は白砂を敷き詰めているほかは何も配さず、“空(くう)”という禅の教えを表わしています。
北側の裏庭は“空の世界”から転じて、無限の広がりを見せる深山幽谷(しんざんゆうこく)の世界。“無”と“有”の表裏一体を表すとされています。
この方丈では、毎年6月に重要な儀式『観音懺法会(かんのんせんぼうえ)』が執り行われています。江戸時代には広い室中いっぱいに33幅の軸『観音三十三変相図』が並べられ、見る者を圧倒したのだそうです。
『観音懺法会』は自らの罪を懺悔する法要で、相国寺を代表する儀礼として京の風物詩のひとつにも数えられています。
大迫力の『蟠龍図』や禅の教えを表した2つの庭園など、見どころの多い相国寺。1度は全焼したものの、復興を繰り返し今に続くその歴史ある姿を実際に訪れて確かめてみてくださいね。
続いては、“~第2話~伝説の尼僧が始めた「眞如寺」”についてご紹介します。
文/中村ゆか
【画像・参考】京都浪漫~悠久の物語~(第1・2週 日曜日 21:00~21:55/再放送 第3・4週 日曜日 21:00~21:55) – KBS京都
※この記事は、2023年6月4日(日)放送時点の情報です。